ブレイキング・ザ・コード感想

舞台「ブレイキング・ザ・コード」@シアタートラム見てきました。以下めちゃくちゃネタバレあり&『悲劇喜劇』2023年5月号掲載の脚本引用ありです。

 

舞台『ブレイキング・ザ・コード』 (breakingthecode2023.com)

 

…いま改めて公式の煽り文読んだんですけど…悲運…か???の顔をしてしまった。

いや実在のアラン・チューリングの死の真相と今回の舞台での結末はまた別なんだけど、少なくとも今回の舞台での結末は私自身は本人に関してはさほど「悲運な死」とは思いませんでした。むしろ…なんていうか……「ハァ~~~やりきったなぁ~~~~~!?!?」みたいな…? いやまあ周囲にとっては悲運なんですけど…。でも性的マイノリティは物語の中でそれこそ「悲運な死」を遂げがちで、それってさあ…みたいな風に最近なっているっぽいから目についたのかもしれないです*1

まあでも後は、自分の目的のため最後までやりきる人間に、私の点がだいぶ甘いというのはある…。スリルミーの「私」とか、マギの白龍くんとか…。鎧武の呉島光実もだいぶ好きです。お前の魂のきらめきを見せて♡(邪悪のうちわ)

 

 

チューリング

いや~ラストの場面が本当に、今思い返してもよかったな~。

がらんどうになった板の上、中央に一本の木みたいなポールハンガーを引っ張ってくるアラン。そのポールハンガーには(そもそも被ってたのかどうかちゃんとは見てないけど、1幕と現在の状況的におそらく)クリスの帽子。帽子を被った相手についばむようなキスをして、からっぽになった棚の中に唯一(二つ)残っていたリンゴと小瓶をアランは手に取り、…。

帽子のかかったポールハンガー、あれはクリスで、彼の元に行くために、彼に再び会うために自ら「毒リンゴ」を齧ったんだなあと私は解釈しました。

ポールハンガー

この舞台って1幕に一度、大道具のソファとか棚とかが角度変わったんですが、そのときポールハンガーは上手最奥から位置が変わらなかったんですね。あ、それは変えないんだ?とちらっとは思ったものの、そのタイミングではそこまで深く考えませんでした。実際、玄関の方向を示すのに役立ってたし(ロンが紅茶とベーコンを買いに出て行った方向も、刑事さんが入ってきたのもたしか上手奥だったと思うので)。

2幕に入ったらポールハンガーの位置も変わっていて(下手、棚の隣だったと思う)、まあマジで背景だと思っていたんですが、再び「あれ?」と思ったのが刑事さんが遺品をダンボールに詰めているシーン。まあまあな尺を取って片付けをしていたわりに、ポールハンガーの帽子はダンボールに詰められなかった。なぜ? 疑問に思った瞬間すぐ回収されたので、めちゃくちゃ気持ちよかったな~。そしてこのポールハンガー周りは一切脚本になかったので、読みながら驚いた。あれ全部演出なんだな~。すごいな演出家って。

あのポールハンガーに誰がコートかけたとかはちょっと覚えていないし*2、個人的には「肉体は滅びても魂は残るか?」という命題に全面同意するわけではないんですけど、アランの心象風景としてはずっと、ずーっとクリスがそこにいて、クリスに見守られていたんだな…。

毒リンゴ

ダンボールに詰められなかったもうひとつ(二つ)のものといえば、そう、リンゴと小瓶ですね! あれ最初からあったんだっけ? 全然覚えてない…。

「毒リンゴ」といえば、アニメ映画『白雪姫と7人のこびと』についての会話が1幕にあったんですけど、

ノックス (前略)あれ、悪い魔女って出てきたっけ?

チューリング ええ。その魔女が白雪姫に、毒リンゴを渡して。

ノックス え、あれ悲劇だったの?

チューリング いや、白雪姫はカッコいい王子の腕の中で目覚めるんです。感動しました。(140頁)

「白雪姫」初見の感想…一周回ってレアだな…(邪念)

これも客席で聞いていて「言及ポイントそこなんだ~」と思いました。「白雪姫」のあらすじは?って聞かれたら、「王子様のキスで目覚める」って言いません? いやまあ現代日本で膾炙しているやつとはまたちょっと異なるのかな~とスルーしちゃったんですが、ラストをふまえると王子様のキスでとは言えないのがよくわかるな~と思いました。そして今気づいたけど、「白雪姫」も死者復活モチーフとして使用されてるのでは…??

クリスという原体験、生きる理由、すべて

若いうちに結核で、それこそ「悲運な死」を遂げたクリス*3。彼について、アランは以下のように語っています。

僕が・・・死ぬべきだった、あいつじゃなくて。だから、クリストファーができなかったことを、代わりにやる。僕はそのために生きてる。(短い間)彼の魂が僕と一緒にいて、助けてくれるって信じてた。(歪んだ微笑み)それを母さんは、僕がとっても信心深い証拠だと思ってるみたいだけど。全然そんなんじゃない。僕が考えてるのは―クリストファーの心は、身体がなくても存在できるのか。この疑問がずっと、頭から離れない。心とは何か、心の中で何が起こっているのか? 生きている人間の脳がなくても、心は生まれるのか? ある意味―実際―僕が解こうとしている問題の多くは、クリストファーに繋がっている。(微笑む)あいつも面白がってくれないかな?(149~150頁。太字はブログ著者)

…改めて思うのは、アランはすごく現実的なロマンチストだな~という…。

親友であり恋人が突然死んでしまって、「心がぐちゃぐちゃになった」彼が「彼の魂が僕と一緒にいて、助けてくれる」と考えるようになるのはわかる。でもそう「信じてた」と過去形を使っている。しかもそれはただ単にクリスの死を受け止めたからこその過去形ではなく、「クリストファーの心は、身体がなくても存在できるのか?」という疑問を持ったからこその過去形なんですよね。ここがすごくチューリングの面白さというか、凄まじさを感じました。スラングを使うなら、フッ…おもしれー男…みたいな(作品の雰囲気が台無し)。

チューリングの功績はエニグマ(暗号)解読なわけですが、彼の本業(?)は別なんですよね。ブレッチリーで初めてノックスと顔を合わせた際に、彼は「数理論理学で僕が考えていることは、暗号学にも応用できるかもしれないって気づいて(141頁)」と語っているので、数学の人なんでしょう。ていうかあの長台詞すごかったな…。言ってる内容自体は正直さっっっっっっぱりだったんだけど、ここは聞き流してもいいところだな~とか、今までのは前提の話でここからが彼の研究なんだな~とか、話の構成は追えました。そういう喋り方(スピードとか強弱とか)を役者の人がされていたからなんだろうな~。すげえな。閑話休題

で…その…研究の一環でなんかすごい機械を作った?(ブレッチリーで仕事を始めた段階ではまだ作っていない)らしい彼なんですが、彼の考えていることは2幕冒頭、講演会?の形式をとって、客席に直接語られます。

そこで疑問が生まれます:コンピュータには知性があるのか。僕はあると言いたい。(中略)もちろん、この考えに賛成できない人もいるでしょう。考えるという行為は人間の不滅の魂がなせる技だ、コンピュータには魂がない、だからコンピュータは考えることができない―そういう人もいるはずです。でもそれは神への冒瀆です―神は機械にも魂をお与えになるかもしれない、その可能性をどうして否定できるでしょう?(155頁)

これ客席で聞いているとき「ん?」って思ったんですけど、「神」への言及がやや唐突に感じたんですよね。

『ブレイキング・ザ・コード』はパンフによると初演がロンドンのウエストエンド、そもそもアラン・チューリングはイギリスの人だから、別に不自然なわけではないと思います。引っかかるのは私が現代日本の観客だから。多分それもあるんですけど、というか客席にいたときはそうだな~と思って深く考えなかったんですけど、いまこれを書きながら「いや、でもさあ…」と思い始めちゃった…。あんたさあ、そんな「神は機械にも魂をお与えになるかもしれない」とか言うようなキャラだったっけ?(このテンションの舞台でキャラとか言うんじゃないよ)

だってブレッチリー勤務時代に、母親のサラに教会へ行くよう誘われたチューリングは「馬鹿らしいよ、無神論者が日曜を教会で過ごすのって」と述べてるんですよ?? しかも「彼の魂が僕と一緒にいて、助けてくれる」と慰めを見出していたけれど「クリストファーの心は、身体がなくても存在できるのか」「生きている人間の脳がなくても、心は生まれるのか?」と考えるようになった人間ですよ???? 突然「神は機械にも~」とかどうしたお前。ほんとにそう考えてる????? 生徒の目を見てもう一回言ってみて??????? てかあのシーン、なんか普通に講演会聞いてる学生気分になって先生の顔をじっと見ちゃったんですけど、ああいうときに目を合わせないほうが役者さんとしてはやりやすいんですかね。わからん。でも私だったら人間と目が合った瞬間に言うべき内容ぜんぶ飛びそう。閑話休題(2回目)。

言葉通りの「神は機械にも~」はいまいち信用できないんですが、でもここで言う「機械」って広く一般の機械を示しているようで、でも実はチューリングの中ではごく特殊なものを想定しているのではないかと思いました。「自分で学習できて、自分で考えることもできる」(137頁)機械。どうしてそんなものを作ったのか? そんなものに興味を持ったのか? 原体験がクリスの死にあることは今までの台詞からも明白です。

でも、エニグマを破った瞬間に彼はほんのりと絶望したのかもしれないと脚本を改めて読んでいて思いました。

ああ、クリストファー・・・君にもあの場にいて欲しかった。二度とない。あんな瞬間は二度とない。(181頁)

エニグマを突破したのは彼の機械です。「彼の魂が僕と一緒にいて、助けてくれる」ことを証明するためには、人間以外にも心が、知性が存在することを証明しなければならない。その"人間以外"の一例として機械を選んだ。つまり、彼の作る機械はクリスの依り代、彼の機械はほぼクリスといってもいい(ド暴論)。

それにも関わらず、アランは「君にもあの場にいて欲しかった」と感じるわけです。「クリストファー、君も見ていただろう?」とか、「君のおかげだよクリストファー、これは僕たち二人の成果だ」じゃない。「君にもあの場にいて欲しかった」。エニグマを解読した二度とない瞬間に、クリスはいなかった。自分の人生で一番の仕事を、アランはクリスと分かち合えなかった…。

 

数学→エニグマ解読・デジタルコンピュータ作成、ときて次のアランの研究内容は「生物の形態形成」(175頁)だそうです。な~んか随分毛色の違うところにいったな~~~としか思ってなかったんですけど、改めて脚本を読んでいて思ったことがあるのでこれも書いておきます。

同性と性交渉をした罪で(クソカス)裁判にかけられ保護観察中のアランは、かつての同僚パットに今の自分の研究内容を語ります。

チューリング 生物はなぜ、その形状をとるのか? なぜ生物は、自分の成長過程を知っているのか? それを説明できるかもしれないって思って―コンピュータを使って、植物や動物の成長パターンをシミュレートしてる。モミの実のフィボナッチ数列みたいなパターンが見つかるんじゃないかと思って。(後略)(175頁)

「生物はなぜ、その形状をとるのか?」。これって「自分はどうしてゲイなのか」の暗喩なのではないかなと思いました。時系列としては裁判にかけられた後なのもなんか意味深というか…。だって「モミの実のフィボナッチ数列」はもっと前、ブレッチリー勤務時代には既に知ってたし面白がってはいたんですよ。なぜ今改めて?

生物はなぜその形状をとるのか。なぜ自分はゲイとして生まれたのか。モミの実は誰に教えられるでもなくフィボナッチ数列に従ってかさのパターンを作る。自分も誰に教えられるでもなく同性のことを好きになる。モミの実はかさがフィボナッチ数列だからといって"矯正"されることはない。でも自分は、同性との性行為は法律に反しているから裁判にかけられ、薬を服用しなければならない。生物の形態形成について研究することで、アランは自分のセクシュアリティを見つめていたのかもしれないな~と思います。アラン本人にその自覚があるというよりは、脚本がそういう見方もできるように書いた、という感じだと思いますけど…。

劇中では「モミの実のフィボナッチ数列みたいなパターン」の他の例が見つかったかどうかに言及はされません。ニコスに熱っぽく語るのも、直近の研究テーマであるはずの生物のことではなく、エニグマを解読したときのことでした。なんかあんまり嬉しくない示唆を感じる…。

 

最終場、舞台としてもアランの人生としても総まとめとして、以下の台詞があります。

身体はなくても心は存在するのか? 生きている人間の脳ではなくても、心は生まれるのか? どうすれば、満足のいく答えを導き出せるのか? それは可能なのか? それとも単に「決定不能」な問題なのか? (182頁)

「身体はなくても心は存在するのか?」、クリスによってもたらされたこのテーマについて、アランは電子頭脳を作ることで検証してきました。それでも答えは出せなかった。この問いが正しいか間違いかどうかは「永遠に決定できない・・・」(182頁)。

だからアランはとうとう「実践的な解決方法」(182頁)を実行に移します。自分の生命を賭けて、自分の人生における最大の問いを検証しようとしたわけです。「解き放たれるのは心か。何もないか。」(182頁)という台詞の通り、勝算があってやったわけじゃない。そして自分の命を引き換えにして仮に正しいとわかったとしても、それは自分だけのもので、後世に対して証明することはできない。それでもアランは最終的にこの選択を取った。五分五分の(もしかしたらそれ以上に勝算の低い)賭けをしてでも、彼はこの問いを探求せざるを得なかったんだなあと思います。やりきったなあ~~~~~~~!!!!!!!!!!

…長々書いてきたけど、要するに、クリスがアランの人生占めすぎていてやばい。(語彙)

同性愛

アランとパット、サラ

パットが最初出てきた瞬間から予感はあったんですよ。「あ、ここ異性愛来るな」っていう。まあ案の定でしたね。(苦い顔)

チューリング 僕は同性愛者なんだよ。

パット 分かってる。それでも愛してる。それでも、愛してもらえるかもしれない。(151頁)

それを言う時点でなんにもわかってねえんだよ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!! と内心噴き上がっていたら即「それだから愛せない」とアランも断っていてよかったです。同性愛者だっつってんだろうが。愛してるって言うんなら愛した男の話くらい聞け!(ブチギレ)

…と、そんな感じで正直あんまり最初の印象はよくなかったんですけど、晩年のピクニックの場面がよかった~。穏やかで和やかで、恋愛ではなく親愛があって。

お母さんであるサラの、「何かできることはある?」(160頁)もよかった。サラは息子を愛しているんだな~と感じられたし、愛していてもアランの死の理由がわからないところが本当によかった(最悪)。愛と理解は別物だと嬉しいので(私が)。

アランとノックス

2幕の第2場のラストのノックスの台詞ね~~~~! あれマジで初見はガチでブチギレていました。

(前略)君だって無視できないだろう、自分のセクシャリティを打ち明けるとき、それが他人にどんな影響を与えるか。例えば恐怖、理解できないことを受け入れろと言われる恐怖。怒り―自分の信念と正反対のことを暴露された怒り。それに痛み。君の告白は人を苦しめる、自分自身とは限らない―君はそれしか考えていないだろうが―君に近い人をも苦しめる。痛み。現実の痛み。(後略)(159頁)

うるせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(大声)

「全く同じことをヘテロであるあなたにもお返ししてさしあげましょうか?(キレ)」くらい言ったれアラン!!!!!!!!!! 負けんな!!!!!!!!!!!!(ヤジ)と思っていたら、ノックスさんも実は同性愛者だということがわかって、怒りはそのままもちろんあるんですけど、なんかちょっと悲しくなりました。アランのことを思っての助言なのはわかるけど、それを当事者であるノックスさんがこういう風に言わなければならないのが…。世界が憎い…。

アランとロン

頭ごなしに決めつけられたら嫌だよね~と同情的な気持ちになっていたら、盗んだんかい!!!!!!! お前が!!!!!! 盗んだんかい!!!!!!!!!!!!!

アランとロンの出会いに関しては脚本だけ読んだんじゃだめで、水田さんのお芝居が絶妙だったな~と思いました。水田さんのロンは、食事の誘いは取り付く島もなく断るけど別の日なら…と譲歩してみせたりとか、ちょっと本心がわからない(アランのことを恋愛的に気になったから声をかけてきたのか、金蔓(言い方)として見ているのかどっちともとれる)な~と思いました。正直お芝居からは、金蔓の気配も少しにじみ出ていたように思うんですけど、脚本だけ読むと、ト書きに指定がないのでアランに好意を持っているだけのようにもとれるんですよね~。だから脚本読むのっておもろいんだよな&舞台っておもろいな&権力差の自覚、性的同意って大事。

てかロンが19、20歳、ニコスも20歳(脚本より)って…。徹底してクリスを追い求めてるんじゃん…。怖いよ。

 

 

いや~~~脚本あるってサイコーだな~~~~~!! どんどん売ってほしい。

あと、袖の幕が取っ払われてて、ライトとか出はけが全部見えたのもすごく面白かった。はける先は地下(?)なんだ…おもろいな…。

 

*1:以下はレズビアンについての文章ですけど

レズビアン死亡症候群、サイコレズビアン…ステレオタイプなマイノリティ描写はなぜ問題? - wezzy|ウェジー (wezz-y.com)

*2:あるじゃないですか舞台で「こいつ特定の1人からしか話しかけられてないな」と思ったら幽霊で、その特定の1人以外からは見えてない存在、みたいな。それと似たような事例が今回の舞台上でも起きていた可能性はあるが、未確認です。

*3:第2場でクリスは「17歳くらい」、その後出てきたサラには「1920年代後半のような格好」と指定がある(『悲劇喜劇』2023年5月号133頁)。亡くなったのは「1930年、2月13日の木曜日」(同149頁)だから、クリスは20歳前後で亡くなったと推測できる。