「12人の淋しい親たち」感想

2022/10/09追記:

通販した脚本が届いたので、台詞を引用し、合わせて本文も一部修正しました。

 

劇団時間制作「12人の淋しい親たち」を観てきました。

以下めちゃくちゃネタバレあり、かつ台詞はうろ覚えです。ぼんやりしていたら脚本を買いそびれた。通販したので届いたら見直します。てかそもそもすごくセンシティブなこと書いてる気がするので突然消すかもしれない。もうなにもわからん。対戦ありがとうございました(?)。

 

劇団時間制作第二十五回本公演『12人の淋しい親たち』 (25jigen.jp)劇団時間制作 | 人間が見て見ぬふりをしている現実、感情と向き合う時間を制作する劇団 (zikanseisaku.com) 

 

【あらすじ】

近い将来、請求陪審制が実験的に日本で行われていた。そこへ集められた10人の親である陪審員が「3歳男児殺害事件」について話し合う。

各々のエゴは、小さな疑問を産み出し、大きな可能性に変化し、そしていつしか譲れない主張へと姿を変える。その主張は果たして正しいのか、間違っているのか、憶測か妄想か。

「他人事」であった事件は、いつしか「自分事」へ。

年齢も性別も環境も価値観も違う親たちの摩擦が織りなす圧倒的現代劇。

(公式HPより引用)

 

ストーリーについて

「ガキ親」(作中での呼称。私本人はこの呼称に賛同しません)に対して初めは「有罪」「情状酌量の余地なし」と“素直”に感じていたところから、本編が進むにつれて揺さぶられる…。そういう見方を想定している脚本だと思いました。

私個人としてはわりと初めの方から「いや父親も悪くねえか?」と感じていたので、脚本が想定するような王道の見方はあんまりできなかったんですが(小さい子どもがいるのに単身赴任を自分から志願して、しかも延長を自分から願い出るのは…どうなのよ…。金さえあれば子どもは育つわけじゃねえぞ)、それでも中盤から、特に女の子が喋り始めてからはすごく引き込まれました。

ま〜〜〜〜〜じで楓ちゃんを演じていらっしゃる方のお芝居がすごい。学生時代のお友達とのショッピングでは少し壊れているというか、何かのたかが外れているようで、法廷ではどこか虚ろで、言葉を絞り出しているようで、でも過去のみっちゃんとのやり取りは(この言い方ちょっと微妙な感じもしますが)どこにでもいる普通の女の子で…。下手中心に陪審員たちがストーリーを進めている間、上手でみっちゃんと楓ちゃんが楽しそうに過ごしている場面があり、頼む!!! 目を2組くれ!!!!!と思いました。笑

 

たいへん古い価値観をお待ち(婉曲表現)の老年男性はそういう芝居だし脚本がそういう人物として書いている(そしてその価値観を積極的に肯定してはいない、むしろポイントポイントで刺している)とわかっていてもすごくストレスを感じてしまったけど、そういう価値観の人間を出す分、周囲の反応や人々(特に陪審員5号)の書き方にはかなり気を使っているのを感じました。太田将熙さん演じる陪審員5号については後述するのでそれ以外で印象に残ってるのは、終盤の男女差別甚だしい台詞にみんな反応しないところ。思い返してみれば初めから、男女差別発言に同調する人はいなかったし、要所要所で批判もなされていたけど、聞く必要なんてない、と登場人物たちも明確に示してくれてありがたかったです。いやもちろん「もうそんな事思ってる人誰もいませんよ」という台詞は直接には"楓ちゃん=ガキ親"の話にかかっていると思うんですが…。脚本家はこれを正と思っていないのはわかる、わかってるんだけど、それでも暴言や怒鳴り声を聞き続けるのは芝居でもシンプルにつらいので…。特に、この話はいま自分の生きている社会の中、あるいは延長線上にあるものだなと感じる場合はなおさら…。

 

陪審員5号と、彼をとりまくものごとについて

陪審員5号が、自分はトランスジェンダー男性であるとカミングアウトする場面で、説明を求められた際の彼の態度がすごくよくて、ちょっと客席で泣いてしまった…。

 

「まだこんな説明しなきゃいけないんですか」「なんでこっちが労力費やす必要があるんですか?」

ま〜〜〜〜じでそう…。
この文脈で出てくる「説明してください」ってすごく暴力的だと私は思っていて。
だって、あなたがわからないのはこっちが説明しないからなんですか? あなたが持ってるスマートフォンって、もしかしてスマホじゃなくてただの板だったりしますか?
セクシュアリティってすごくプライベートでセンシティブなことなのに、どうしてお前なんかのためにつまびらかにしなければいけないんだろう? 私はもう私としてここに存在している。それなのに、どうしてお前に説明して、その上で認めていただかなくてはならないんだろう? そもそもどうしてお前がジャッジするの? たまたま自分自身のあり方が、社会が肯定し存在を認めているものと一致していて、たまたま自分自身のあり方について考えずに済んできただけの人間が偉そうにしないでもらっていいですか??


「偏見がないってなんですか?」「偏見はありますよ。人なんですから」

ま〜〜〜〜〜〜〜〜〜じでそう(2回目)。「自分に偏見を持っていた」っていうのもま〜〜〜〜じでそう…。このあたり情緒がしっちゃかめっちゃかになっていたのでいまいち記憶がない。

いやもうマジでこの一連の場面だけで、この舞台観に来てよかったなと思った。物語の本筋とはあんまり関係ない部分でこんなこと思うのもアレだとは思うんですけど、この舞台を生で観られて本当によかったです。

 

そのあと特にトランスジェンダーだからといってそれをすごく強調したりエキセントリックなお芝居をするでもなく、また周囲から何か言及されるでもないのがよかったな〜。

彼がカミングアウトしたのは自分の主張に「実体験」という裏付けをつけなければ多分聞いてもらえないだろうという考えと、もしかしたらそれ以上に、「陪審員裁判」という場であることが効いていたんじゃないかと思います。10人は陪審員として話し合うために集まったんだから、この裁判が終わったら他の9人とはもう関わり合いになることがないわけで。だから「べつにどう見られても構わないんで」という台詞は、投げ捨てるような言い方もあり、どうせこの場だけだからあなたたちには、というニュアンスもあるんじゃないかと勝手に想像しています。そんなふうに所詮この場だけの関係だけど「性別は関係ないとは思いますけど」、「あ、ごめんね、笑っちゃって」*1とひと言付け加える、そういう人生を送ってきた彼が今後、もっと楽に眠れる夜を過ごせるといいな…。すみません、証言(台詞)や証拠(役者の演技)だけでなく、個人的な感情を持ち込んでしまいました。笑

 

「男は子どもが3歳になるまで実感が持てない」という言説そのものにはまあまあモヤモヤするが、でもそれは血の繋がりは関係ないよ、という台詞に、彼の抱いていただろう引け目みたいなものがほどけた様子はよかったです。「自分と同じ感じ方をしている人がいる」ってそもそもすごくほっとすることだし、自分と周囲の違いを目の当たりにして「お前はおかしい」という暗黙のメッセージを常に突きつけられて生きているクィアの人間にとっては本当に貴重なことだと思うので…。

 

 

 

 

 

…書きながらふと思っただけなので全然まとまってないんだけど、トランスジェンダー男性の彼本人に説明をさせず、かつ本人も「説明」を拒絶したことによって、脚本は「説明」に付加される権力みたいなものに自覚的である、少なくとも感じていると思われるんだけど、それにしては冒頭とはいえ「有罪の理由」を説明するよう求める場面との食い合わせが悪くなった気がするな…。
あの場で説明責任があったのは有罪に入れた9人ではなく営業の人のはずであり、討論の場においてその責任を果たしていない彼の態度は不誠実といえるので…。まあでもああしないと「ハイ皆さんが"純粋に"感じておられる通り子殺しは絶対悪です! 『猟奇的殺人犯』を断じて許せませんよね! おわり」になってしまうのでしょうがない面もあるのか…

 

*1:ここ、「もういいでーす」と謝罪を突っぱねられるのも好きでした。謝ったからといって全て受け入れてもらえるとは限らない。でもそれでも間違ったら謝らなければならないし、反省しなければならない。人生という冒険は続くので…